メモ 2014-04-02

日本人にとってのこれまでの方法論的な流れをさらうと、80年代以降の反レイシズムは「自らの加害性を自覚した上で反差別にどう関わるのか」という問題だった(ポストコロニアリズム)。

これは正当なことだと思う。但し国家と社会と個人の責任を切りわける必要。しかし、この認識が一般化する前に問題が生じてきた。被害者の声を尊重するのだが、①被害者が判断を迫られたり矢面に立つ。②被害者を庇護の対象や神聖化する善意の差別③被害者代弁主義やひいては被害者糾弾④国家・社会・個人の責任を分節化せず個人もすべての責任を追うと思う認識など。

便宜的にこれを〈拗れポスコロ〉と呼ぶ。一方在特会は、構図はそのまま〈拗れポスコロ〉における被害者と加害者の「位置」を逆転させたもの。「在日に特権がある」「日本人差別するな」

東京でのカウンターは①〈拗れポスコロ〉にならない②在特会〈拗れポスコロ差別・民族左派〉にならない事をめざした。←いまここ

今後は、現在の方針と同時に「多様なマイノリティーと接触していく中で学び変容していく」ということが進行するのでしょう。ここで、展克さんの最初の問題に戻る。当初私が答えたのは、若い皆さんの実践過程で回答が出てくるだろうということでした。

もっとも現在の運動論は一般化するのに時間が掛かるので、当分はその主張を展開する必要があるでしょう。また、未経験の方を入れる必要があるし。過去の運動論や経験にとらわれない柔軟な若い皆さんが、きっと今まではできなかったコミュニケーションを可能にしてくると思います。

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