ネットにおけるアイデンティティーの多元性と一元性、表局域と裏極域―Twitterの本垢・趣味垢論に端を発して― その1

【まだ落書きなので引用しちゃだめ笑】

すでに定説ですが1990年代代前半のインターネット研究では、ネットは非言語的手がかりが少ないために、対面と比較して貧しいコミュニケーション手段だと考えられました。これにはコンピュータを媒介にするコミュニケーションが限られた専門家の間で、職業的に使われるということが前提という背景がありました。しかし1990年代年代後半になると、利用者層や用途が拡大し、この非言語的手がかりが少ないことが、逆に豊穣なコミュニケーションを生むと考えられるようになりました。顔が見えないことや、言語的な手がかりが少ないことによってかえって、自己開示や自己提示が進むという結果が社会心理学的実験から得られました。

つまり、「そう使ったからそうなった」ということで、ネットコミュニケーションが何かという定義は、予言の自己成就的なところがあるわけです。もう一つは、非言語的手がかりは「モナリザの微笑」のように、むしろなんだかわからなくするものでもあり、言うまでもなくあらゆるコミュニケーションは偶有的です。ネットコミュニケーションは対面コミュニケーションに再帰的に付加価値を与える役割を果たすようになります。ネット普及期、「インターネットでは伝わらない」というコピーを貼っている神社がありました。ネットはご利益を増したのです。

1995年に出版されたシェリータークル『接続された心―インターネット時代のアイデンティティ(原題:Life on the Screen)』は米国を中心とする研究で、MUD(オンラインゲーム)を取り上げて、匿名のコミュニケーションを中で、人々が対面の世界と違う人間関係、アイデンティティーを構築ししていく姿を描きました。タークルはそれを、自己のアイデンティティーの一元性が揺らいでいく姿として受け止めました。そして、「インターネットは、ポストモダンの生活を特徴づける、自己の構築と再構築の実験のための、重要な社会学実験室となった。」と書きました。それ以外にも色々重要なことを書いているのですが。

それより少し前に書かれたハワード ラインゴールド『バーチャル・コミュニティ―コンピューター・ネットワークが創る新しい社会』は、ネットで人々が繋がることの楽観的な側面を強調しました。ネット上のコミュニティを通して人々助け合いより良い世界を目指して作るいく可能性があると考えたのです。(記憶なので大雑把)

ざっくりいうと、前者はネットの裏局域性を、後者は表局域性を強調していると言えるかもしれません。1986年と古いジョシュア・メロウィッツ『No Sense of Place: The Impact of Electronic Media on Social Behavior』は、電子メディアは表局域と裏局域の垣根を払い両者を交錯させるのだ言っています。86年なのでネットじゃなくてテレビですけど。

やがてタークルのポストモダン的なネット理解は批判されていきます。Slater, D. and D., Miller, 2000, 『The Internet: an Ethnographic Approach』は、トリニダード・トバゴのインターネット利用を調査して、対面社会との強い連続性を主張しました。

やや過剰であった少々技術決定論的な「ネット・対面 二世界論」に修正が加えられたと言っていでしょう。状況に応じて、ああも使えばこうも使うと。

そうは言っても、例えばアルタナティブなアイデンティティーと人間関係といっても、広義のアーキテクチャーに制約されたものです。ナンシー・ベイムはオンライン・コミュニティの社会的意味は、それを形成しているリソースと、参加者の行為の再帰的な相互関係に成り立っていると考えました。ベイムが挙げた5つのリソースとは、①外的文脈、②時間構造、③システム・インフラストラクチャ、④グループの目的、⑤参加者の特徴です。このようなリソースの割り当て(appropriation)を受けて、ひとびとは、①表現様式、②アイデンティティ、③関係性、④行為の規則、というような社会的意味を形成しているというのです。

例えば、ネットといっても日本の場合2000年近くになるまでパソコン通信が主流でした。そこで日本に住む人々は、ハンドルを使った仮名のコミニュケーションの世界を体験するわけです。その中で、対面世界とは違うアイデンティティをネットの中で構築するという経験を持ちました。しかしそこでの経験の背景にはパソコン通信独自のアーキテクチャーがあったと思います。

例えば映画の「ハル」(主演:深津絵里・内野聖陽)が描いているのはハンドルネームの世界です。対面の世界では挫折と困難を抱えている2人の若い男女が、パソコン通信の世界で心の奥深くにあることを語り合ううちに、パソコン通信の世界の方が真実でゆるぎないものになっていき、対面世界の方が、変転が激しく欺瞞満ちているという様子が描かれています。言うまでもなく2人は恋に落ちるのですが、本名も顔も知らないからこそ真実が語りうるという世界観がよく描かれています。当時人々は、スクリーンの迎え向こうに深津絵里や挫折した元アメフト選手のイケメンがいると信じて一生懸命パソコン通信したのです。

また、女性の家庭生活や仕事上の苦労や矛盾を話し合うフォーラムが作られ、フェミニズムのConsciousness Raising Groupのようなものも存在しました。さらに、本垢・趣味垢に近いこととして、人間としてのアカウント宇宙神霊としてのアカウントを2つ持ち、チャネリングをするというチャネラーもいました(Tamura 1999 Spiritual Network in the Internet Embedded Society : FARION Forum as a Case)。

他方で、ネットの中で自由に議論することによって公共圏が成立するのではないか、という情報公共圏論が2000年頃に興隆しました。

これらの背景には、特に情報公共圏論の背景には、パソコン通信のアーキテクチャ特性というものがあったと思います。パソコン通信は、1つの会社が運営するネットワークにクレジットカードなどを登録して参入するという方法で、基本的に人物同定は会社によって行われていました。当時としてはまだ一般的ではないクレジットカードを持ち、また、比較的高額であった通信料金を支払うことができる上に、高価で使い方の難しいパソコンを使ってコミュニケーションできるという点で、かなり限られた人々のコミュニケーションツールでした。同時に、それぞれのフォーラムには司会者がいて、議論を整理し秩序を保つという言論空間でした。私はこの状態を「紳士淑女の仮面舞踏会」とよんでいます。ハンドル名という仮面をつけて踊っているけれども、実はお互いに紳士淑女であることがわかっている、そういうネット空間だったわけです。

続く…

その2はホームページ時代から

denshi